昭和49年09月07日 朝の御理解
御神訓 一、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」
私は今朝方こんなお知らせを頂いた。津波というものがどういうものかは知りませんけれども。とにかく大きいもうそれこそ、巨大な波がこう打ちかける。波がこんな仕掛けて来てる。その下をです沢山な人が逃げ惑うておる所でした。それを私が先頭に立ってね、岸壁の高い所があってその浜からこうコンクリートの石段がこうあってね。だから私が先導しながら、こちらの方へ上がらなければ駄目だぞぉと言って、もう絶叫して私が、言っておるんですけれども。
浜伝いにただこう逃げる人、又は私の言う通りに私の後からついて来る人。そう言う様な場面でした。こう波がねこうおおいかぶって来とるです。大体ならもう一遍にザーッと流れるでしょうけれども。まぁここんところがお知らせですね。ここんとこにちょっと時間があるという感じなんです。もう波がこうおおいかぶって来とる。その下を沢山の人が、浜伝いに逃げておる。それを私一生懸命にこっからこう登らなければね、こっから登らなければいけない。
こっから上に登る道があるから、こっから上に登れと言うて、私がもう絶叫しておるところである。そして私は今日のこの御理解を頂いてね。今日はそういう意味で本当に神の教えも、真の道も知らぬ人の哀れさと言う事を感じました。真の道も知らない。又は神の教えも聞いた事もない。そういう人達の哀れさ。もうそこに大きな波に一呑みに呑まれようとする様な危機迫っておる中にです。ここを上に上がれば助かられると。上にはずうっと一段高い所へずうっと家並があるんですよ。
だからそこまで行けばその波も届かないと言う様なね感じなんです。本当に私の言う事を聞かぬ者の哀れさと言う事にもなるのです。私は今日はその事を頂いてです。本当に成程地球の危機と言われておる事がね、この様にも言うならば迫っておるのだと言う様なものを感じさせて頂いておりました。昨日、お道のこれは教会に送って来ます、金光教教報というのが送って参りますが。信行期間に思うと題してです。先日から新聞に運命共同体という事を言っておられた先生。
これは北海道の先生、八代という大変素晴らしい頭の良い先生だそうですが。その方の書いておられるのを読ませて頂いておりましたら、やっぱりそう言う様な事が書いてありましたから、ここに控えました。読んでみましょうか。「現在の難儀は世界的規模を持ち、深さにおいては、人類生存にまで関わるという、予想にまで言及をされるには、もう未曾有の事でありましょう」とあります。現在の難儀はもうどういう角度から見ても、いつも私が申しますように。
言うならば公害の問題、又は人口の問題。資源の問題。どの問題から言うてもです。どの問題からしかもそれを、学問的に計算的に見てもです。現在の難儀は、世界的規模を持ち、深さにおいては人類生存にまで関わるという予想までがです。言及されるのは、これはもう未曾有の事である。かってなかった世界の難儀だという風に言っておられます。私共は、ここんところを、霊的に見るわけです。私が、頂いておりますように、地球上に、死相が見えると神様が。
そういう例えば難儀な時にです。本当に神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさと言う事を、いよいよ、哀れさを大きく感じます。そこで金光様の信心を頂いておれば、例えば助かるかと言うと、そう言う事ではない。私が大きな津波の下を一生懸命走っておる。沢山の群集に向かってです。こっから上に登れとこっから上へ。それを真っ直ぐ行ったんでは、浜づたいに行ったんでは駄目だと。浜づたい火葬場までの浜づたいか。あんな句があります。あの御理解頂いた事ありましたね。
もう浜づたいに行ったら火葬場の方へしか行かんのだ。そこからだからこう上がらなければ登らなければ。一段一段登って上に上がり得た時にです、初めて生き残る人々としてのおかげ。ですから結局は私の言うておる事を、皆さんが聞いて頂かなければならん。それを、または行じて行かなければならない。それだけではない。私共がです真の幸福を得て行かなければならない。この世に極楽を開かせて頂き、しかもその極楽を一段と高めた合楽の示現まで高めて行かなければならない。
本当に神様も喜んで下さり、私共も喜べれるような道に出らなければならない。そういう、未曾有の時である。そういう時に合楽に御神縁を頂いて、私が言うようにこちらから登れる道があるんだ、こっから登って上まで上がらなきゃいけないと言っておる。それを、一段一段、上って行かなければいけない。その事を私は真の道と言うのであり、神の教えと言うのは、そこの所を説いてあるんだと思います。
本気でですお互いがね、一つ高められて行く自分。愈々しかも幸福を生み出して行く、その源泉とも思われる。そういうものを自分の心の中に頂いて行かなければならない。言うならば、確信のある祈りを、愈々深めて行かなければならない。同時に一心の信行。信は信心の信。行は行う。一心の信行を身につけて行けなければならない。確信ある祈り。昨日の御理解のところですよね。
祈りというものは、私共と神様とのいわば交流の道だ。私共が一生懸命に御祈念をさせて頂くと言う事は、神様と交流する事だ。まず拝む事から本気で始めなければいけない。同時に、祈りと言う事は、昨日の御理解を頂くと心の体操だと。心を自由自在に動かす。自由自在に力を生む事の出来れる事だという風に昨日は頂きましたですね。それは例えば小さい祈りでもいい。それは浅い祈りであってもいい。例えば天下国家と言った様な事ではなくても、自分の一身一家の事でもいい。
そういう切実な一心の祈り一心の信行が出来て行く内にです。そういうものが一つになって。例えば合楽という一つの固まりのようになって行く。参ります内にですそれは様々な所に、言うならばぶっつかり合いながらでもです。それがいつか一つになって。大きな川と言うか大河に流れて行く事が出来るだろう。この流れに合流しておらなければ、今の合楽の信心に合流しておらなければ、そういう信心によってです。
初めの間は小さい祈り、言うなら自己主義的な中心が、自己的な願いを中心としての信心であってもです。それがねこうやって共励し合い拝み合い。又はこうした朝の御祈念に、一緒にこうやってお繰り合わせを頂いておると言う様なです、おかげを頂いて行く内にです。それが様々なところを通りながら、言うならぶっつかり合いながらもです。一緒に大河に流れ出ると言う事です。
ですから、合楽に御神縁を頂いておる人は、分かっても分からなくてもです。そこの所が段々頂けてくる。言うなら私が最近申しております、極楽の自覚と言った様なものが出来て来て。その極楽を、合楽の示現活動に参画させて貰う。そういう心持ちを言うなら高められた高度な人間の精神というものがです。いつの間にか高められて行くというおかげが頂けて行くのが私は信心。いわゆるこの八代先生が仰っておられる、信心共同体というような言葉で表現出来ると思うです。
それは程度の高い者も低い者も、本気で合楽示現活動に参画しておる人も、とは思いながら、先日から頂いておりますようにね大きな輪を持ってです。言うなら盆踊りのように踊らなければならんのだけども、踊り道を知らない何人かの人が踊っておるだけだ。まだリズムも聞こえない。どういう調子で踊って良いやら、手を出すのが先やら足を出すのが先やらも分からないような状態だけれども。何とはなしにです例えばこの頃からの、ここで合楽祭りの時にです。
沢山の人が合楽の、合楽音頭という訳ですかね。あれは私が二十数年前に、丁度善導寺の久保山さんがお参りされた時に、私が何かを聞きつけて即座に十一でしたかね、あの歌詞が出来たんです。詩の文句が出来たんです。でそれを一つひとつが教えですから。それを久保山さんにあげました。だからそれを色んな節をつけて輪を描いて踊ります。だから、合楽音頭のような物です。
ですからそれは実を言うたら、見やすい踊りなんですけれどもです。やっぱり反対の方の手を出したり、反対の足を出したりして中々思う様に皆さんが踊れないようにです。それがそうして行く内に、その踊りも覚えさせてもらい。言うなら前の人を見ながら、本当の一つ踊りよる人を見ながら覚えれる、見やすい踊りなんですから。言うならば合楽示現活動という事はです。現在銘々が頂いておるおかげ、又は合楽で現されておる所のおかげを、人に伝えて行こうと言うのですから、実を言うたら見やすいのです。
嘘を言わんならんとか、嘘を作って話さんならんと言うなら難しい。けれども自分がおかげを受けておる事、合楽で実際おかげが現れておる事実をね、伝えて行くだけの事ですから、難しい事ではないのですけれども。矢張り中々まだ踊りきらん時には難しいという事になるのです。けれどもそれがいつの間にか体得され、いつの間にか覚えさせて頂いてです。大きなそれが分からんなりに、一緒に信心共同体と言う様な働きになって、しかも、大河に流れこんでおる。
いつの間にか、親先生が言うておられてる、その一段一段上に上がって、いわゆる生き残る人々としてのおかげの頂けれる所まで、お互い人間を高めて行くと言う事が出来る。私は、共同体というのはそう言う事だと思うです。群集心理と申しますか。わっしょいわっしょいと言うておる内にです、本当な事か嘘の事か分からんけれども、本当の方に語っておる人は、いつの間にか本当の事になってしまっておる。
でない人はそれこそ、浜づたいに火葬場行きをしておると言った様な結果になって来るとこう思うです。だから愈々一つ確信のある祈りと。一心の信行それは狭くても小さくてもです。合楽信心共同体の中に、お互い入らせて頂いて。いつの間にか一段一段心も清め、一段一段改まりもさせて貰い、一段一段、真の道も知らない、信心の教えも聞かない人達よりもいつの間にか、次元の違った高い所に登らせて頂いておる。
はぁおかげで生き残る事が出けたと言う様な、おかげを頂かせてもらう。だから合楽で今説かせて頂いておる事はです。言うならば幸福の源泉とも思われる所を、皆さんにいつも聞いて頂いておる訳であります。だから訳は分からんなりにもです。今合楽で唱えられておる事を唱えながら。出来る出来んは別として、その大きな活動に参画させて貰うて、おかげを頂いて行かなければならんと思います。
神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさという御神訓を、私は今日ほどに大きい意味合いで、本当に信心のない者は、愈々哀れだなぁと言う事を、大きく感じた事はありませんでした。私が頂いておるお知らせといい。昨日私が読ませて頂いた先生の、いわゆるこの方は、まぁ御信心も出来ておられると同時に、大変な学者であられると言う事ですけれども。それを例えば学者の目でです、現在の世界の難儀というものを、そういう大きな規模と、深さを持っておる。人類の生存存亡に関わるという風に言うておられます。
それを私は霊的に見てです。言うならば現在の人類の上には、大きな津波のようなものが、上からこう覆い被さって来ておるという感じ。その下を一生懸命逃げ惑うておるという感じ。そこで私はそれこそ一段と高められた次元。そういう世界に登らせて貰い移らせて貰うおかげを頂かなければならない。それは大変な難しい事。けれども共同体であります。いわゆる合楽全体がです。
言うならば幾人かの人の指導があってです。さぁこちらをご覧、わっしょいわっしょいで言いながらです。合楽の方達はです分からんなりにも、高められて行くような働きを受ける事が出来るというほどしの、今は事であると思います。勿論銘々がです本気で信心を高めて行く。いわゆる確信のある祈りです。又は一心の信行を自分の心に頂いて。それを、愈々自分の心の清まる事に、高められて行く事に精進して行くと言う事も、勿論です。けれどもそこまでに至らなかってもです。
例えば共同体です。ですから例えば今日、ここにお参りしておられる方達がです。私がさぁこっちさん登らんならんよと言うたら、訳は分からんなり皆で、わっしょいわっしょいで、恐らく登るだろうと思いますよ。そしてはぁおかげで助かったと言う事になるのです。そういう大変な時です。そういう意味で今日の御神訓を頂きました。神の教えも真の道を知らぬ人の哀れさ。本当にそれを聞かない。又はそれを知らない人の哀れさを、今日ほど大きく、深く感じた事はありませんでした。
どうぞ。